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February 29 鎌倉街道は法華街道?(海部郡の鎌倉街道8)鎌倉街道は法華街道(海部郡の鎌倉街道8)海部郡の鎌倉街道を歩いていると鎌倉街道は法華街道?と思わず思うほど目に付くのが、題目宝塔といわれる南無妙法錬華経の石碑と日蓮宗の寺院です。 宝泉寺から北に向かって、河村産業の塀沿いに鎌倉街道を歩いていくと、県道名古屋甚目寺線に出ますが、信号の反対側に大きな石碑が見えてきます。 石碑の表面には、日蓮宗の題目と開宗750年慶讃で泉竜寺が建立したと書かれています。 の~民は、日蓮宗のことは詳しくないので良く分かりませんが、信長の天下取の歴史を見たとき、尾張は一向宗(本願寺)の王国と思っていましたので、日蓮宗の寺院や石碑の多さに驚かされました。 下萱津の集落の中には題目宝塔の石碑があります。 八王子神社の境内にもあります。 近くには妙浄寺という日蓮宗のお寺もあります。 県道名古屋甚目寺線沿いにある題目宝塔(泉竜寺建立)の付近は、日蓮宗関係の寺院や石碑等が多数あります。 宝泉寺から題目宝塔まで *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ February 25 立田ふれあいの里の餅つき大会立田ふれあいの里餅つき大会昨日、道の駅立田ふれあいの里で、餅つき大会があると聞きましたので、ドライブがたら行ってきました。 の~民はお餅が大好きなので、つきたてというと目がありません。 機会があると参加しては戴いています。 本当ならば餅つき自体をしたいのですが、準備や後片付け、付いたお餅のこと等考えると自分で行うことは出来なくなってしまいました。 今回の餅つきは子供が主体だったのが残念です。 でも親のパワーはすごいですね。 参加できるのは20名だと放送や係員が声を嗄らしているのにこの数 店員ははるかにオーバーしているのに諦め切れあい親心でしょうか? ぜひの~民も、餅つきをしてみたかったのですが またの機会にして、つきたてのお餅を戴くことで満足することにしました。 道の駅立田ふれあいの里の場所です。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/8/28.247,136/41/50.869" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/8/28.247,136/41/50.869&scale=25000"></a> 愛宕社(海部郡の鎌倉街道6-2)愛宕社(海部郡の鎌倉街道6-2)宝泉寺 宝泉寺門前の愛宕社 愛宕社の場所 宝泉寺門前の小さな祠の神社名が分かりました。 神社名は、愛宕社で、祭神は、迦具土神です。 神社の創建は、元禄11年9月です。 古くは宝泉寺の鎮守であったから、宝泉寺が現在の地に移転した時、この社もこの地に移したものです。
甚目寺町史よりの抜粋
*の~民の記事「獏の寺・宝泉寺(海部郡の鎌倉街道6)」へ
愛宕社の場所です。
February 18 お酒で願いがかなう山伏塚(海部郡の鎌倉街道7)お酒で願いがかなう山伏塚(海部郡の鎌倉街道7)山伏塚 山伏塚は、伝承によると昔この地が萱津宿といわれていた頃に、年老いた山伏がこの里にきて病にかかり、ついに死亡したので里人がこの地に埋葬したと伝承されている塚です。 山伏は死に臨んで遺言を里人にした。 『私は本来酒好きであるのだから、私の死後酒を供えていただきたい。そのかわりには、どんな願い事でもかなえます。』 以後、里人は何か願い事があると、この塚に酒をそなえて祈るようになった。 また一説には、この里に住んでいた山伏の住居跡とも云われています。
山伏塚には不思議にもスギナが生えず人々は塚から木の枝一本、葉の一枚を拾ってきても、必ず罰が当たると信じていた。 さらに、ぎゃく・おこりの病がただちに治ること奇妙であるとされ、現在でもかたく信じている人もいるそうです。 でも今見ると木の上部が伐採されている。 長老の話では、隣接する民家に迷惑になるからと、木の上部を数年前に伐採したそうです。 現代人の権利意識は、言い伝えよりも強いものなんだと改めて感心しました。 *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ
February 14 喫茶茜屋のゲルニカ模写(喫茶ギャラリー)喫茶茜屋のゲルニカ模写銀世界 今日はまたもや雪 先週の土曜日には大雪があり、久しぶりの積雪があった。 今日も雪で一面の銀世界かと思ったが、昼過ぎにはすべて解けてホッとした。 今日は、昨日新聞で見つけたしらさぎ福祉園の通所者たちの力作、ピカソのゲルニカを模写した絵画が展示されているというので、津島市の喫茶茜屋まで早速見に行ってきました。 ゲルニカはスペイン内乱で、戦争の悲惨さを訴えるためにピカソが書いたものだとの認識はありましたが、絵画を見たことがありませんでしたので、朝の休息がたらと思っていきました。 しらさぎ福祉園の通園者が描いたゲルニカは、縦が110センチ、横が290センチもありますが、それでも9分の1だとか。 実物の小さな写真が横にありましたが、実物を見たらどんなものなのだろうっかと思ってしまいました。 茜屋の店内には、他の通所者の絵も多数展示してありました。 の~民は絵心がまったくありませんが、それでも一生懸命さが感じられる作品ばかりでした。 特に大根の絵には感心してしまいました。 喫茶茜屋は, このほかにも、毎週のようにギャラリーが開らかれています。 店内には今後の予定もはってありました。 February 11 オコワ祭オコワ祭オコワ祭 一昨日の大雪が嘘のような今日2月11日に、オコワ祭が行われるというので、下之森集落(愛知県海部郡七宝町大字下之森)の八幡神社へ行ってきました。 オコワ祭は、古くから下之森の集落で旧正月11日に行われている珍祭です。 二升のオコワ(強飯)が炊かれ、神社に供えられた後、お櫃ごと荒縄で編まれた袋に入れられる。 それにつけられた縄を氏子がもち両側から引っ張って振り回し、境内の石にたたきつけ、荒縄の袋の隙間から手を入れて、割れたお櫃の中からオコワをつかみ出して食べるものです。 これを食べると無病息災で過ごせるといわれています。 昔は、大勢の若者が参加して大変激しい神事だったようですが、今は厄年の男女の厄落としの行事になっています。 それでも、オコワを取り出すのは手の小さい子供のほうが良いようで、子供たちが取り出したオコワを、回りの大人たちにおすそ分けしていました。 近年では珍しくなった集落の老若男女が一体となったお祭でした。 の~民もオコワのおすそ分けをいただきましたので、今年は無病息災でいける気がしています。 オコワ祭の荒縄で作られた網の作製 オコワ祭で使われる荒縄で編んだ袋 オコワ祭の神事 厄年の男女と長老が神事をする。 子供たちによる荒縄で作った袋の隙間からオコワの取り出しとおすそ分け の~民がおすそ分けしていただいたオコワ 氏子による甘酒の振る舞い
文化審議会答申(無形民俗文化財関係) 「http://www.bunka.go.jp/1osirase/houdou_20070119_mukei.html」 February 09 太閤天然温泉・湯吉郎太閤天然温泉・湯吉郎太閤天然温泉・湯吉郎 太閤天然温泉湯吉郎へ行ってきました。 ここは住所こそ清須市になっていますが、庄内川と新川に挟まれた場所にあり、県道名古屋甚目寺線の豊公橋信号交差点の北側にあります。 の~民の感覚では、太閤天然温泉湯吉郎は、甚目寺町大字下萱津地内の施設という感じがします。 太閤天然温泉湯吉郎の、屋上の庭園露天風呂から南側を見ると、萱津橋越しに月之宮神社や下萱津の藤が見えます。 甚目寺町地内の鎌倉街道の散策コースで利用する場合は、金山神社や萱津神社側から南に向かって歩き、宝泉寺や三社宮神社月之宮神社などを見、疲れた体を休めるためにこの温泉につかり、庄内川を越えて、市バスの豊公橋東バス停から帰宅するのが一番良いかもしれません。 の~民が今日ここを利用したのは、太閤天然温泉湯吉郎露天で雪見風呂を楽しみたかったからです。
雪の降り積もりつつある梅標準木 今日は天気予報どおり、午前10時頃から振り出した小雨に次第に行きが混じるようになり、次第に本格的な雪になってきました。 一面の銀世界になった風景と灰色の空から次々に降りてくる綿帽子のような雪を見て、露天風呂に浸かって雪が見たいという欲求に逆らえずへいきました。 雪景色の湯吉郎 昨年も雪見風呂を楽しみたいと雪の降った日にここへ来たのですが、受付をしている間に雪は止み雪景色見になってしまった苦い思いがあります。 時間を惜しんで、屋上庭園風呂へ舞い降りる雪を見ながら安堵の気持ちを胸に茶壷の湯へ 一人用の狭い浴槽で、暖かいお湯に浸かりながら舞い降りる雪の冷たさを感じる これこそ何事にも変えがたい至高の時間 う~~極楽・極楽 *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ 太閤天然温泉・湯吉郎 のHP http://www.toukichirou.com/index.html
February 07 和食処おくだ(海部郡の鎌倉街道 ランチ)和食処おくだおくだのマスコット? 和食処おくだ 海部郡の鎌倉街道を散策中にお腹空いた。 そんな時のの~民のお勧めは、和食処おくだでのランチです。 和食処おくだは、宝泉寺の西約500メートル、山伏公園の北側にある食事処です。 ランチメニュー ランチは1種類のみで、日替わりではなく不定期に季節に合わせて替わります。 今は、熱々の柳川風のなべと煮物それにお刺身と茶碗蒸しでしたが、税込み1000円はお徳でした。 味は流石に和食処を名乗るだけあって、美味しかったです。 食事場所 呼び出しブザー お昼は、食事をする場所がすべて個室になっており、お店の人はブザーを鳴らさないと来ませんので、カップルにはもってこいです。 ディナーメニュー また、お昼のランチは1種類のみでしたが、ディナーはそのようなことはありませんのでゆっくりと楽しむことが出来ます。 ただ、お昼のランチは11時から1時30分までですので注意が必要です。 *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ
田舎のネコ達三社宮神社で見た黒ネコ 下萱津の土地改良完成記念碑で見たネコちゃん 海部郡の鎌倉街道を散策中に見つけたネコちゃんたちです。 三社宮の黒ネコちゃん、おはぎの兄弟かと思いました。
February 03 甚目寺観音の節分会甚目寺観音の節分会甚目寺観音の節分会会場 地球温暖化で明日のも砂漠化し、冬が来なくなるように騒いでいますが、 今日は朝から雪景色、大寒なので、この冬一番寒い時季ですが、明日は立春、暦の上だけとはいえ春になります。 季節も確実に春になっているようで、の~民の梅の標準木(近くの駐車場にある梅の木を勝手にそう呼んでいるのだけです。)にも数輪の花が咲いていました。 旧暦では、明日が新しい年の始まり、そして今日は大晦日です。 の~民も近くにある甚目寺観音の節分会に行って来ました。 の~民は厄払いというより、こういうイベントやお祭りに出る屋台が大好きで、今日も串カツのドテ味噌付けを食べたり、イカ焼きを食べたりして満足して帰ってきました。 甚目寺観音で祈祷済の恵方巻き こまつちゃんシリーズ・こまつちゃん来福 もちろん帰りには、甚目寺観音で祈祷済みの恵方巻きと、甚目寺町が売り出し中の地域名物こまつちゃんシリーズ・こまつちゃん来福を買ってきましたので、今夜は女王様と食べます。 今日節分、かつて平安時代宮中では、旧年の災いや邪気をはらい新年の幸せを招くため、節分に陰陽師たちが追儺(ついな)の行事をしていました。 室町時代以降に、豆をまき悪い鬼を追い払うようになり、これが庶民の間に広がりました。 節分に豆をまくのは、豆は「魔目」「魔滅」に通じ魔の目を豆で打ち、魔を滅することを意味するといわれています。 豆まきに炒った豆を使うのは、「炒る」は「射る」に通じ、硬い豆(鬼)を炒ることで鬼を射り、その豆を食べることで鬼を退治する意味があります。 1年の無病息災を祈って数え年の数だけ豆を食べます。 豆まき の~民も節分会の豆まき会場で豆を拾い、歳の数だけ食べようと思いましたが、拾う人たちの熱気に圧倒され、スゴスゴと帰ってきました。 それにしても会場の熱気はすごかった。 節分会の会場になっている甚目寺観音は、江戸時代に尾張四観音の筆頭として広く尊崇を集め、今も多くの人々に慕われています。 その歴史は古く、推古5年(597年)、伊勢甚目村の漁夫龍麿が、江上庄の入り江(甚目寺観音の南東やく200mの地点・かつて甚目寺観音の付近に海岸線があった。)で、黄金色の観音像を網にかけ、入り江の北にお堂を建てて像を納めました。 これが甚目寺観音の始まりとつたえられています。 白鳳時代になると寺は大きくなり、病になった天知天皇が願をかけ全快したことが各地に広まり信仰をする人が増え、その頃から鳳凰山甚目寺といわれるようになりました。 鎌倉時代には一山五百坊といわれ、およそ3000人の僧がいたそうです。 甚目寺観音は、の~民たち地域の者にとっては誇りですが、 荒子や笠寺、竜泉寺に比較して地位の低下が著しいような気がします。 丸かぶり寿司・恵方巻き 今年の年徳神のいる恵方に向かって太巻きをまるかじりする恵方巻きは、福を巻き込み縁を切らないという意味が込められていて、大阪が発祥の地といわれています の~民が買ってきた恵方巻きは、今年の恵方南南東がよく分かるようにりらっくまの恵方磁石付でしたが、よく見ると磁石の北が、西の方角を指しています。 まいった、まいった。
February 01 獏の寺・宝泉寺 (海部郡の鎌倉街道6)獏の寺・宝泉寺 (海部郡の鎌倉街道6) 宝泉寺山門 宝泉寺の場所
宝泉寺にいくには、月之宮神社の鳥居から主要地方道・名古屋第二環状線を横切り、河村産業所の塀沿いに道なりに進むとあります。
渡しを渡り海部郡(甚目寺町)地内の鎌倉街道にはいると孫左池がありました。 現在この池はありませんが、甚目寺町大字下萱津に孫左池という小字があります。 地図で見ると、河村産業所の南半分がこの小字なので、工場を作る時に埋め立てられてしまったのでしょう。 宝泉寺山門前の祠 宝泉寺山門前のお堂と中に収められた石仏 宝泉寺の山門前には小さな祠(愛宕社)と、たくさんの石仏を納めたお堂がありました。 云われはわかりません。 *の~民の記事「愛宕社(海部郡の鎌倉街道6-2)」へ 正月に宝泉寺で配布された宝船 宝泉寺は、正月吉例として宝船の絵を刷るので知られており、別名「獏の寺」ともいわれていた。 この宝船は、新しい年の吉運を招く初夢を見るために、この絵を枕の下に敷いて寝る風習で、江戸期に広く普及した。 正月元旦から二日にかけてみる夢を初夢といい、その夢によって、1年の各人の運勢を判断した新年の行事で「一富士、二鷹、三茄子」が吉夢の代表とされ、この吉夢を見るための作法としての行事であった。 宝泉寺が配布した宝船の絵は、宝船に乗った七福神に、聖徳太子が秦河勝の悪夢を呪禁したと伝えられる「なかよきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」の回文歌を印刷した紙片で、これを正月二日の晩に枕の下に敷いて寝るとよい夢を見ることが出来るといわれているものであった。 また獏の寺とは、万一悪い夢を見た時これを食べてしまって、よい夢に変えてくれるということから獏の寺と言われるようになったいう。 しかし、この優雅でゆかしい伝統も耐えてしまったのは誠に残念です。
宝泉寺本堂 宝泉寺は、弘仁年中(810年~824年)に守敏亜闍梨が開基した寺院です。 当時の伽藍は7堂あり、塔頭には妙王院、観正院、常楽坊の3ヶ寺を持つ相当巨大な寺院であり道場であった。 それが永和年中(1375年~1379年)に兵火のため伽藍ことごとく焼失し、廃寺の状態に追い込まれたのであったが、辛うじて本堂、客殿などを仮築して細々と寺務を続けていたのであった。 ところがさらに永正年中(1504年~1521年)に寺領水害にあい仮堂も破壊した。 元文4年(1736年)覚鳳法師らが寺社奉行に願い出て旧薬師堂跡へ移転した。 宝泉寺は、無本寺であったが、寛文4年の本末改めの時(21世・教音法師の代)に大和小池坊長谷寺の末寺になり、今日に至っている。 甚目寺町文化財報告書Ⅷ・甚目寺町の寺院~縁起と由来~・甚目寺町教育委員会発行から抜粋 月之宮神社から宝泉寺までの写真です。 *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ
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