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March 31 「ネコ村さん」と「ヨコチマ君」のお仕事?March 30 日泰寺と同じ仏舎利のある円行寺(海部郡の鎌倉街道13ー2)日泰寺と同じ仏舎利がある円行寺 (海部郡の鎌倉街道13-2)円行寺山門 円行寺を見学して驚いたのは五輪之宝塔があったことです。 五輪之宝塔と碑文 五輪之宝塔の脇に由来を書いた石碑があり、以下の記載があります。 「この宝塔の中には、お仏舎利と法華経が収められている。 お仏舎利は、名古屋の故渡辺金治郎氏の妹(渡辺すゑ)さんが、大阪の妙王院(真言宗)から譲り受けたもので、日泰寺のお仏舎利と同じものと言われている」 日泰寺が建立された時の京都奈良の大寺院の対応と、日本タイ両国のことを書いた新聞記事の特集を記憶していますので、この碑文を読んだときにはびっくりしました。 円行寺の本堂 円行寺の由来 実成寺の境内にある寺院で、山門を入ってすぐ右側にある。 本尊は本門無量仏で由緒は寛永年中、円柔院日宣上人の開基である。 古くは円乗寺と称した。 「府志」に記してある天明年中実成寺二十四世玄中院日昌の当時に、日宣が隠棲するにあたり、下萱津の土地20石を寄進し、寺運の永続を図ったので、以来日宣を中興開山と称している。 明治震災で建物が大破したのであるが、先々住堀尾栄運、先住、安藤栄超が現在の寺観に復旧したものである。 甚目寺町文化財報告書Ⅷ・甚目寺町の寺院~縁起と由来~・甚目寺町教育委員会発行から抜粋
*の~民の記事「実成寺へ」
円行寺の場所です。
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/11/2.133,136/50/46.938" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/2.133,136/50/46.938&scale=10000"></a> March 27 福島正則の寄進した山門がある実成寺(海部郡の鎌倉街道13)福島正則が寄進した山門がある実成寺(海部郡の鎌倉街道13)実成寺の辺りは、かつてこの辺りが東西南北の4つの宿からなる萱津宿言われていた頃、中心となっていた南宿があった所です。
そのためかどうか分かりませんが、この辺りが海部郡の鎌倉街道のうちでは、もっとも鎌倉街道らしい道が続いています。
鎌倉街道は、180cmの道幅で作られていたそうで、実際に通行してみるとあまりにもの狭さにびっくりします。
実成寺の山門は、豊臣秀吉子飼の大名として有名な福島正則が寄進したと伝えられている四脚門本瓦葺です。
実成寺の境内実成寺所在地 甚目寺町大字中萱津字南宿254番地 創立は、元応元年(1319年)第94代御伏見天皇の時(第14代執権北条髙時当時)である。
中老僧、善学阿闍梨、日妙上人八十歳の時改宗した。 上人が開山である。 日妙上人は日蓮上人、弟子、中老18人のうちの上位に位し、仁治元年の生まれである。 年若くして、当時真言宗に属していた当寺に住していた。 現存する本堂の内部はその当時の護摩修法の道場で、十如堂とも称されていた。 鎌倉円覚寺所蔵の「弘安6年(1283年)9月26日付寺領(富田庄)寄進の古地図に、萱津宿の中央あたりに、実成寺と明記されているのをもってしてもすでに当時実在していたことが知れる。 日蓮上人入寂(1282年)の時には日妙上人は44歳であった。 それから考慮すること36年、意を決して改宗されたのであった。 心機一転された上人は、上萱津に妙勝寺を創建して、これを布教の第一線基地として定め布教活動に入られたのであった。 東は春日井、西は七宝の付近、北は稲沢方面まで及び、これが当国に於ける当宗門の濫觴であった。 上人が100歳になった時、高弟日長上人に二世を任せ、再び当寺に隠退された。 貞和元年(1345年)4月23日、年齢106歳にして当時にて入滅された。 日長上人33歳にして、妙勝寺より、当寺二世を継承せされ、在位中、六ツ師、長栄、普門の両寺を創建し、応永6年(1399年)3月10日86歳で入滅された。 宝塔院日肝上人28歳にて第三世を継承、在位40年永享10年(1438年)7月16日68歳にて入滅、その間、泉竜寺、本要寺の二ヵ寺を開山した。 この上人の一周忌に建立された。 宝篋印塔は墓地中最古の碑として現存する。 第七世日佳の時に、本堂御拝上に取り付けてある鰐口が寄進された。 名に曰く、 明応7年戌午(1498年)12月26日願主沙門 日佳敬白 とある。 本堂の須弥壇は桃山期の作と識者の間に定評がある。 甚目寺町文化財報告書Ⅷ・甚目寺町の寺院~縁起と由来~・甚目寺町教育委員会発行から抜粋 実成寺境内の3寺院実成寺の境内には円行寺、泉龍寺、正善寺の3寺院山門があります。 末寺とはいえ境内に山門がある寺院は珍しいものです。 *の~民の記事「円行寺へ」 *の~民の記事「泉龍寺へ」 *の~民の記事「正善寺へ」
八王子神社から実成寺への道順八王子神社から実成寺への道順八王子神社の鳥居前を北進する。
北進約15~20mでT字路に出るので、T字路を右折する。
T字路を右折ご、約200m東進すると十字路に出る。
十字路を左折すると鎌倉街道にでるので左折する。
左折後路地のような鎌倉街道をやく300m北進すると萱津保育園(外壁が黄緑色)にでる。
萱津保育園の反対側に実成寺の山門(現在工事中なので山門のみがポツンと建っている。
実成寺の入り口にかつて境内にあった石碑や宝塔が入り口に移設してあった。
*の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ
実成寺の場所です。<a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/0.694,136/50/46.898" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/0.694,136/50/46.898&scale=25000"></a> March 25 の~民の昼食の~民の昼食本日のの~民のお昼です。 今日は王女様が久しぶりに休暇でしたので、の~民に昼食を作っていただけました。 大食いのの~民ですが、今日は昼食後、しばらく間動くことが億劫に思えるくらい戴きました。 麺類好きのの~民に、ポルチィーニダケとエビと菜花の春スパゲッティーを作っていただけました。 スパゲッティーにチーズが絶妙に絡み、とても美味しくなっていました。 また菜の花が春を感じさせ、エビを散らして、季節感たっぷりの美味しいスパゲッティーになっていました。 リゾットは、王女様のお好きなものです。 今日のポルチィーニダケとベーコンのリゾットは、少し塩味が効いていましたが美味しい味に仕上がっていました。 ドライトマトとタマネギの無醗酵パン、以前にも作っていただきましたが、今回は作り立てで熱々だったことと少し柔らかめに作ってありましたので美味しくいただけました。 今日の昼食はとても満足でした。 王女様ありがとうございました。 March 20 ドライトマトとタマネギの無醗酵パン歴史の道標・中萱津の供養塔(海部郡の鎌倉街道12)歴史の道標・中萱津の供養塔(海部郡の鎌倉街道12)中萱津の供養塔は、中萱津地区の土地改良事業で改良区にあった数箇所の塚を一箇所にあつめて祀った供養塔です。
中萱津は、かっての萱津の宿4宿の中心となった、南宿と西宿があった地域です。
当然、地域内には数々の塚があったと思われます。
中には、下萱津にあった山伏塚や新居屋にあった小町塚のような塚や、上萱津にある萱津合戦の塚に合祀されなかった戦死者の塚もあったのでしょうが、すべてが土地改良事業という名によって先祖の歴史が消されされてしまいました。
の~民の住む集落でも土地改良事業は行われましたし、土地改良事業によって多大な恩恵も受けましたが、一抹の寂しさと後ろめたさは感じます。
供養塔を作り、古里の歴史の彼方に思いを馳せる標を残された、中萱津の先達に感謝すべきだろうと思います。
中萱津の供養塔の場所です。
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/11/0.545,136/50/40.693" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/0.545,136/50/40.693&scale=10000"></a>
八幡社から供養塔へ、そして実成寺への道順です八王子社から最初のT字路を右折して、東進するのが本来の鎌倉街道です。
しかし八百万社、八幡社、供養塔と実成寺の西側を通るコースに見所がたくさんあります。 八幡社から供養塔をへ、そして実成寺への道順八幡社の鳥居前を西進し、最初のT字路を右折する。 最初のT字路を右折して北進約150mに供養塔と土地改良記念碑「緑風田」の碑がある。 供養塔と土地改良記念碑を過ぎて約200mの十字路に出て右折する。 十字路を右折し、左側に線竜寺、円行寺を見ながら東進約300m、堤防道路の手前路地(鎌倉街道)の十字路を右折 左側に萱津保育園を見ながら南進約50m、右側に実成寺がある。 実成寺は現在工事中で、山門前にはかつて実成寺の境内にあった石碑が移築されている。 *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」 March 19 参拝するのが辛い下萱津の八幡社(海部郡の甚目寺街道11)参拝するのが辛い下萱津の八幡社(海部郡の甚目寺街道11)所在地 甚目寺町大字下萱津字宿ノ口947 祭 神 応神天皇 由 緒 八幡社は、明治神名帳に「天文2年3月勧請」と記しているが、寺社誌の原本といわれる享保7年の留書に記されている事実から鎮座年代は藩政以前、鎮座地が萱津の西宿に近いのから考察して、或は室町前期の創建ではないかと丹羽稿本では云っている。 明治11年5月16日据置公許。 海部郡史稿本では、境内321坪、官有地第1種なり。氏子5戸、例祭は9月21日とある。 徇行記記事の境内5畝歩前々除がこの社であるとしたら相当に古い社ということになる。 境内321坪 伊勢湾台風で痛めつけられ今はその面影も止めていないが、それ以前までは樹木鬱蒼とした森林であった。 氏子 5戸 建物その他 社殿 0.55坪 拝殿 4坪 狛犬 1対 鳥居 1基 境内社 秋葉社 祭神 迦具土神
甚目寺町史からの抜粋
八幡社は、古い格式のある神社のようですが、の~民の訪れた時は、寂れた神社という雰囲気でした。
忘れられたと言う感じは無いですが、手入れをしているのに追いつかないという感じで、参拝するのが辛いと感じる神社です。
八幡神社の場所です。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/10/58.811,136/50/41.574" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/58.811,136/50/41.574&scale=10000"></a>
八王子神社から八幡神社への道順
八王子神社から八幡社府の道順八王子神社から約20m北進すると、T字路に出るので左折する。 T字路を左折してやく15mくらい西進すると、最初のT字路に出るので右折する。 T字路を右折後、約500mくらいで八幡社に着く。 *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ March 16 謎の豪族の屋敷神?八百万社(海部郡の鎌倉街道10-3)謎の豪族の屋敷神?八百万社 (海部郡の鎌倉街道10-3)八百万社 所在地 愛知県海部郡甚目寺町大字下萱津字池端835番地 際神 天神地神 八百万社の由来 宝永3年勧請 明治11年5月16日据置公許。 この祠の所在地は、民有地であるので、宝永年中当時の豪族が屋敷神として祀ったものと思われる。 しかしこの祠の所在地は、集落の通路の角にある。 その当時は通路まで屋敷内であったことになるが果たしてそのような豪族が在住していたのであろうか。 宝永年中といえば中御門天皇時代(1704年~1711年)で、徳川綱豊、家宣両将軍当時である。 その頃には既に萱津村には宿駅の面影は全然なく、ただの農村にすぎなかったはずである。 また徇行記によると同村は約800石の地で、6人の給人に分割されていて蔵入地はない。 また宝永より古い寛文年中の記録では、農家43戸であった。 それがすべて小作で、髙は全部一家のものであった。あるいは、他村まで髙を持っていた豪族があったかもしれないが、しかしそのような豪族なら口碑ぐらいは残ったはずである。 この甚目寺町史の八百万社を記した筆者が土地の古老から教わった話しでは、この集落は法華信者が多いから祀ったとのことであった。 つまりこの祠は三十三番神を祀ったもので、現在でも集落のものは番神様と呼称しているという。 付近の八王子者境内には、今も題目宝塔と妙見堂があるが、何か関連があると思われる。
甚目寺町史からの抜粋
謎の豪族の屋敷神かもしれない。 こういうミステリーは大好きです。 本当にその通りだといいなぁ~ 法華宗の三十三番神より夢とロマンがあっての~民は屋敷神説のほうが好みです。
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/10/52.825,136/50/39.933" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/52.825,136/50/39.933&scale=10000"></a>
県道名古屋甚目寺線の北側に建立されている、題目宝塔から路地を北進するとT字路に突き当たる。
T字路を左折して、最初のT字路路を右折そのまま北進すると八百万社の前にでる。
なお、最初のT字路路を右折せずに、そのまま西進すると約2~30mで池端地蔵堂の前にでる。
*の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」 March 14 近藤一族に守られている池端地蔵(海部郡の鎌倉街道10-2)近藤一族に守られている池端地蔵池端地蔵は、萱津井筋上の歩道橋より旧道を50m程東に入ったところにある。 木造瓦葺切妻建棟掛瓦仕上げで、間口110cm奥行140cmのがっしりとした立派な地蔵堂である。 本尊は高さ48cm、立像宝珠形の地蔵菩薩であるが、創立期は不明である。 このお地蔵様は現在近藤一族三家で御守りしているという。 近藤さんのお婆さん話では、昔は池端の念仏宗の人々で維持管理されていたが、転宗され残ったのが近藤一族のみといわれた。 この中に一体の石仏が併祀されている。 阿弥陀像か地蔵像と見られるが、幼児の墓石として作られたものである。 甚目寺町のお地蔵様から抜粋
お地蔵様は、人々を守っている仏様ですが、そんな人を救う神様や仏様も忘れ去られてしまう。
そんな時でも守り伝えていく一部の人々がいる。
忘れ離れていくのも人なら、いつまでも守り伝えていくのも人
池端地蔵の話を知り、人は千差万別だなぁ~改めて感じてしまった。
でも、転宗した人は何宗になったんだろう?
周りの人々が転宗した集落で、転宗せずに頑張った近藤一族の人たちは、どんな気持ちだったんだろう?
現在でいうイジメは無かったのだろうか?
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/10/51.484,136/50/37.892" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/51.484,136/50/37.892&scale=10000"></a>
題目宝塔から池端地蔵堂へ題目宝塔から池端地蔵堂までの道順県道名古屋甚目寺線の北側に建立されている、題目宝塔から路地を北進するとT字路に突き当たる。 T字路を左折して、西進すると約2~30mで池端地蔵堂の前にでる。 池端地蔵から西を見ると、50m先に歩道橋が見える。
*の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」 March 13 題目宝塔がある八王子神社?(海部郡の鎌倉街道10)題目宝塔がある八王子神社?海部郡の鎌倉街道は、甚目寺町による鎌倉街道の案内では、むしば地蔵から工場地帯を北進することになる。 しかし 県道名古屋甚目寺線沿いに竜泉寺が建立した題目宝塔まで戻り、題目宝塔から路地を北進して八王子神社前を通るコースのほうが鎌倉街道らしいのでそのコースを紹介したい。
八王子神社八王子神社は、不思議なことに境内に日蓮宗の題目宝塔と妙見堂がある。 神社の境内と隣接して 日蓮宗の仏閣があるのが普通だと思うのだが、 不思議である。
八王子神社所在地 甚目寺町大字下萱津字池端844 祭 神 天忍穂耳命・天津日子根命・熊野久須毘命・市寸島比売命・天菩毘命・活津日子根命・多紀理毘売命・多伎津比売命 由 緒 不詳である。 池端の氏神であって、毎月21日に社前で法華経を読誦する例がある。 海部郡史稿本には、 境内150坪、官有地第1種なり、氏子27戸、例祭は9月21日なり。 境内 115坪 氏子 30戸 建物その他 社殿 3坪 拝殿 7.5坪 祭文殿 1坪 狛犬 1対 灯篭 19対 鳥居 1基 社標 1基 燈明台 1基 手洗 1基 題目宝塔 1基 境内堂 妙見堂
八王子神社の場所です。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/10/54.275,136/50/41.184" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/54.275,136/50/41.184&scale=10000"></a>
題目宝塔から八王子神社までの道順題目宝塔から八王子神社への道順題目宝塔から路地を150~200m北進するとT字路に出るので左折する。 T字路を左折後すぐに10mぐらいの最初のT字路を右折して北進すると八百社に出るので右折する。 八百社に出るので右折した路地を東進するとまたT字路に出るので左折する。 左折後、そのまま覆審すると約50mくらいで八王子神社に至る。
*の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ March 09 勝幡神社のおこわ祭勝幡神社のおこわ祭おこわ祭 勝幡神社で行われた奇祭、おこわ祭に行ってきました。 今日(3月8日)は3月らしい暖かな日でした。 以前2月11日に、海部郡七宝町大字下之森の八幡神社で行われたおこわ祭を見て、郷里にもこんな珍しい御祭があるものだと思いながら見学していました。 下之森のおこわ祭には、愛西市の勝幡神社の氏子の人たちが来て見えて、3月8日に勝幡神社でもおこわ祭をすることを聞きました。 勝幡神社のおこわ祭は、子供たちがおこわを担いで勝幡の集落を回った後、神社に供えられて神事が行われます。 の~民は、おこわを担いで集落を回っているのを見たのですが、写真を撮ることが出来ませんでした。 返す返すも残念です。 神事は、ほぼ七宝町大字下之森の八幡神社とおなじで、炊かれたおこわ(強飯)を、神社に供えられた後、お櫃ごと荒縄で編まれた袋に入れられる。 それにつけられた縄を氏子がもち両側から引っ張って振り回し、境内の石にたたきつけ、荒縄の袋の隙間から手を入れて、割れたお櫃の中からおこわをつかみ出して食べるものです。 これを食べると無病息災で過ごせるといわれています。 昔は、大勢の若者が参加して大変激しい神事だったようですが、今は子ども会の行事になっています。 勝幡神社のおこわ祭は取り出しやすいように縄で作った網の一部を切りますので、大人たちも積極的に参加していましたが、それでも主は子供たちでした。 近年では珍しくなった集落の老若男女が一体となったお祭でした。 の~民もおこわのおすそ分けを戴きましたので、今年こそは無病息災でいけると信じています。
おこわを叩き付ける境内の岩
おこわを岩に叩き付ける神事 おこわのおすそ分け おこわ祭のサイト http://www.aichi-kanko.jp/search/detail.asp?id=4741&gnrcd=03&burcd=03001&cikcd=2&kwd=&cpg=8 March 06 三種のナッツとナツメグのスコーンMarch 03 内ネコの休日(内ネコ劇場)むしば地蔵(海部郡の鎌倉街道9)むしば地蔵(海部郡の鎌倉街道9) むしば地蔵
宝永元年(1704ねん)に造立されたお地蔵様です。
別名むしば地蔵と言われ、このお地蔵様に煎り豆を供えて、『この豆の芽が出るまで虫歯が痛まないように』と頼むと一生虫歯が痛まないといわれています。
虫歯が痛むのは、の~民も嫌です。
昔は歯医者はないので虫歯が痛み出しても治療法はないし、農民では薬も手に入れることは出来なかったと思われますので、このようなお願いをする気持ちも分からないではありません。
ですが、豆を煎って芽が出ないようにしておいて、『芽が出るまで』とまるでだますような事をしなくてもと思うのですが。
でも、そんな人間の浅はかな考えを許してみえたのでしょうね。
このお地蔵様って偉大ですね。
田中地蔵
むしば地蔵の正式名称は田中地蔵です。
現在は、㈱オクダの一角の道路沿いにありますが、何度も移転され、初は宝泉寺が現在の名古屋甚目寺線までの寺域の時、門前の小塚の上にあり、田中地蔵と書かれた御地蔵様であった。
県道拡張までは道路沿いの北側にあったが、区画整理で現在の場所に移転された。
お堂は、木造瓦葺切妻縦棟の掛瓦仕上げで、間口115cm奥行き140cm木組みである。
本尊は、高さ79cm立像宝珠形であり光背付である。
地震で倒れた時に折れたのか、頭上に修理したあとがある。
本尊左側の光背部分に「念仏講中かやつ村」、右側に「宝永元(1704ねん)甲申8月25日」とあり古いお地蔵様である。
堂の前に立てられた石柱に「むしば地蔵」とあるように虫歯痛に御利益があるといって名高く、御参りにはイリ豆を供え、『この豆が芽を出すまで歯痛を止めて下さい』といってお願いするということであるが、お地蔵さまが余り皆の願いを肩代わりした為に、御自分の顔が腫れておいでになると土地の人はいう。
行事は、集落の真宗の人が中心になり初地蔵・地蔵盆を行っているという。
題目宝塔からむしば地蔵まで *の~民の記事「海部郡の鎌倉街道1」へ |
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