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April 30 吉法師吉法師<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/10/24.355,136/43/42.66" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/24.355,136/43/42.66&scale=10000"></a> 津島・まちあそびのイベントの一つに、焼き菓子吉法師をいただく喫茶コーナーがありました。 4月27日日曜日に、ギャラリー飛翔(津島市本町3丁目31番地)に1日のみオープンした喫茶店、チャ、茶、chatで、天王文化塾≪食べる≫分科会が創作した焼き菓子吉法師をいただきました。 この焼き菓子には、吉法師の名前の由来と作り方なども紹介した文が挟んでありました。 チャ、茶、chatで、グリーンティーと一緒にいただきましたが、甘さ控えめでモッチリしていて咬んだの蓮のみの食感がなんともいえない美味しさでした。 今回の津島・まちあそびのイベントの為の焼き菓子なので、もう食べることは出来無いのが残念です。 でも、評判さえよければ、津島の名物として売り出したいとのことでしたので、ぜひ売り出して欲しいです。 もう一度食べてみたいなぁ~ April 29 大膳川に水軍あらわる?大膳川に水軍あらわる?<a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/7/33.617,136/46/35.996" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/7/33.617,136/46/35.996&scale=25000"></a>
かって蟹江合戦の折、この大膳川の水軍が現れ、大野城へ押し寄せました。
そしてこの地大小の河川が網の目のように通り、水運が発達して、蟹江町や津島市は大いに栄えました。
戦いは、陸のみならず河川を利用した水軍も活躍しました。
の~民の住む海部郡は、水郷の地と言うと聞こえは良いのですが、海抜0mの輪中地帯です。
耕地整理をするまでは、集落の周りに大小の用水が網の目のようにありました。
の~民の集落は海部郡でも比較的海抜が高い地域なので、道路が発達していました。
それでも川舟を持っている人がいて、幼少の頃は川舟は珍しいものではありませんでした。
しかし親戚が弥富市にありますので、川舟に乗ったことは結構あります。
弥富市は、かつて自分の田んぼ(水田)に行くには、川舟しかダメというところが多くありました。
蟹江町のかにえまちなみ探検隊が大膳川で手漕ぎ船で川を巡るイベントを開くとの新聞記事を見つけ、懐かしくなって早速行ってみました。
町内で開かれた私鉄のウォーキングイベントに合わせて企画されたそうです。
主催したかにえまちなみ探検隊の人たちが船頭をしながらこの地の歴史を分かりやすく解説してくれました。
かつて戦国時代の末期、徳川家康と豊臣秀吉の間で歴史的にも有名な、小牧長久手の合戦がありました。
この大膳川の付近は、その一つ蟹江合戦があった地だそうです。
この大膳川を挟んで西側に大野城、そして東側に蟹江城がありました。
大膳川のすぐ西には大野城の石碑があります。
徳川方に付いた大野城を攻略するため、九鬼水軍が伊勢湾から上ってきて、激しい合戦があったそうです。
そんな話を聞きながら舟に乗り波に揺られていると、気分は九鬼水軍の一員、このまま大野城に一戦だ!戦いをという気分になってしまいました。 April 27 三十三観音様の吉祥寺三十三観音様の吉祥寺<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/10/17.337,136/43/52.487" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/17.337,136/43/52.487&scale=10000"></a> 信長の台所津島・まちあそびのイベントが、平成20年4月19日から5月6日まで開催されていますので、その一環で行われている吉祥寺弁当をいただくため三十三観音様の吉祥寺へ行ってきました。 吉祥寺は慶長13年(1608年)に創建され、本堂は文政7年(1824年)に建立されました。 そして昨年200年ぶりにアメリカの建築家ジェフリームーケスによって改修されました。 寺院にしては本堂は質素でしたが趣のあるお寺でした。 の~民は仏像のことは良く分かりませんが、三十三観音様は厳かな感じのする仏様でした。 April 24 キンカンの蜂蜜漬けキンカンの蜂蜜漬けウリ坊(息子です)が、キンカンの蜂蜜漬けを作ってくれました。 オッコト主様(女王様の母親です)が、喉の調子が悪いというので、喉の為に良いというので作ったとのことでした。 そしての~民にお裾分けしてくれましたが、甘くて美味しかったです。 体はイノシシさんになり、流石に生意気になりましたが、の~民にとっては可愛い小さなウリ坊です。
子は親の背中を見て育つといいますが、ウリ坊の見せるやさしさには感心します。 の~民の背中を見て育ったからやししい子になったと言いたいところですが、の~民もそこまでは思えません。 よくよく考えてみるに、の~民の両親の世話をしていた、女王様の背中を見ていたのではと思いました。 3年前に他界したの~民の父親は、アルツハイマーでボケがひどくなり、世話は結構大変だったろうと思います。 そんな女王様をウリ坊や王女様はよく助けていましたので、ウリ坊が見ていた背中は、女王様の背中ではなかたかと思います。 の~民もいまだに母親の背中を思い出しますから。 子供にとって母親の存在は偉大だなぁ~ April 22 甚目寺の御鍬祭甚目寺の御鍬祭<a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/28.224,136/49/30.76" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/28.224,136/49/30.76&scale=25000"></a> 先日(4月19日)、甚目寺の御鍬祭を見てきました。 甚目寺の御鍬祭りは御輿だけでなく、山車まで出した大変盛大なものでした。 しかし、甚目寺はいつの間に山車を造ったのだろう? いままで見たお祭には、なかったような気がするのだが? 昨年あちこちの集落で御鍬祭が行われましたが、甚目寺町は今年になって集中的に行われています。 甚目寺町大字甚目寺では、今年になって漆部神社本殿で、昭和22年と明治20年に行われた、御鍬祭の御神体の鍬が見つかったので、神社の春の大祭にあわせておくわ祭を行うことにしたとの記事を新聞で見つけましたので早速行って見ました。 時間が無くて、御鍬祭のお練(行列)しか見れませんでしたが、あまりにもの規模に驚きました 流石は甚目寺の集落だと感心しました。 新聞では、御鍬祭り用に御輿を二基完成させたと載っていましたが、いつの間にか山車まで造ってありました。 普段の甚目寺観音のお祭を思うと、『ひょとしたらこれでも質素になったのかもしれないなぁ~』と思ってしまいします。 江戸時代の御鍬祭りは、今のように集落単位でなく、村(集落)から村(集落)へ御輿やお札を送ったそうですが、もっと多くの人たちが練り歩いていけば、藩や幕府が恐れたこともうなずけました。 一つ間違うと、そのまま一揆になったかもしれませんものね。
April 21 サトザクラサトザクラ
桜前線も通り過ぎ、ピンクのトンネルを懐かしく思いだしていると、桜前線が札幌まで到着というニュースを耳にしました。
この間までの赤茶けた冬の大地が、緑の衣をまとって本格的な春になったら、今日(4月21日)は名古屋は早くも真夏日になりました。
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/53.085,136/49/14.785" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/53.085,136/49/14.785&scale=25000"></a>
つい2~3週間前には、桜のトンネルの下でお花見をしていた水辺之散歩道も、若葉のトンネルになっていました。
でも、よく見ると緑のトンネルの一部がピンクのトンネルになっていました。
サトザクラがやっと満開になり、遅れたお花見が出来るようになりました。
でも、緑の中のピンクはやはり情緒がありませんね。
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/13.474,136/48/5.675" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/13.474,136/48/5.675&scale=25000"></a>
でも、サトザクラロードなら綺麗じゃないかと思っていってみました。
サトザクラも本当に綺麗です。
赤やピンク、白に緑いろいろな色があり綺麗なのです。
でも、の~民は一面ピンクのソメイヨシノの花のほうが好きだと改めて感じました。 April 19 の~民の今日の夕食April 17 上萱津の御鍬祭Ⅱ上萱津の御鍬祭Ⅱの~民は、約半世紀生きてきてきました。 昨年はじめて御鍬祭の存在を知りました。 近隣の集落の同級生の中には、御鍬祭りに実行部隊として参加をしたものもいましたし、まだ御鍬祭を知らない者もいました。 農業を親から引き継いで十数年、引き継ぐ以前も集落の寄り合いには顔を出していましたので、30年以上は、集落の行事に参加してきましたが、そんな祭があるとはまったく知りませんでした。 の~民は、日本の農村には忘れられてしまった行事が、御鍬祭の他にも沢山あるかもしれないと思う。 ひょっとしたら、100年に一度と言うような、そんな祭があってもおかしくないと、昨年から今年にかけては思っています。 観光イベントとして、東海地方には有名な高山祭や、海部郡には津島祭などがありますし、最近は地域の活性化として名古屋でもど真ん中祭なども企画されていますが、それの劣らない祭があったことに驚きました。 上萱津の御鍬祭の行列を見ながら、先人たちの気持ちはどんなのだったろうと想像していました。 「御鍬祭考 -民衆の伊勢信仰-」を読み、御鍬祭誕生とその後、そして現在の御鍬祭を考え想像すると、近世の日本いや尾張地域では、村から村へ踊りを伝えながら広がっていたことがあったのだなぁ~と思い、誕生させた人たちの思い、そして広め伝えた人たちの思いはいかばかりだったんだろう。 時には権力者たちの肝を冷やし、繰り返される規制を撥ね退けながら、時代のうねりの中に消えていたの先人たちの底力を思っていました。 明治の変革明治維新以後、恩師の制度がなくなっても、尾張地方では、明治二十一年、昭和二十二年と続いてきたが今年(平成十九年)また60年目となり、美和町、稲沢市、甚目寺町、愛西市(八開村、祖父江町、佐織町、佐屋町)、弥富市(弥富町、十四山村)七宝町など自治体の再編成などを経たところを含めて、あちこちで御鍬祭が始まった。 あるところでは大々的に賑やかに、あるところでは年中行事に加えた形で静かに迎えた。 いずれも農業が生きている土地である。 明治以降、御師制度がなくなっても六十年に一度の祭を継続する土地でも、村から村へ巡回させることはなくなり、それぞれの村内で完結するようになった。 その村の周辺に新しい居住者が増えて、新しい地域社会ができている。 そんな折り、この「お鍬祭」があらたな結集の場に、格好な例祭あるいはイベントとして登場した。 御鍬祭の最初と見なされている、今年(平成十九年)5月13日に行われた東溝口(美和町)は馬も二頭借りて、外から阿波踊りの太閤連を呼んで、伝統型とイベント型の折衷ではじまった。 農村ではあるが、観客を意識した都市的な例祭だとも言える。 その次の丹波(美和町)子供達の参加を中心に手作りの要素を入れたものになった。 その後の鵜多須、高畑、西川端、二子(ふたご)(愛西市)桴場(いかだば)、西城、五明(弥富市)など見ごたえのあるものが続いているが、五明などは60年前は終戦後間もないこともあって、神事のみで、祭礼いわゆるお祭はなかった。 二子では60年前、シベリアに抑留されていて村にいなかった2人が長老として参加していた。 今年(平成19年)4月の第2日曜日60年目の先頭を切って御鍬祭を行った木折(美和町)ある。 小鹿氏の記憶では、60年前には嫁獅子などを中心に皆が参加し、馬も出た行列で賑わったが、嫁獅子の伝承もなくなり、数年前から伝承もなくなり、数年前から申し送りがうまくいかずとりあえず神事だけやって、祭礼の方は未定ということだった。
御鍬様の祠に案内された。 そこには神明社と書かれた石作りの標柱に、昭和22年4月の御鍬祭の記念に建てられたことが記載されていた。 祠の中には、7本の「お鍬様」が納められているという。 農業が衰退して、政治や行政も空洞化している今、地域社会の再生を図る場合、神事や祭礼に関わるかどうかは、信教の自由を確保しながら、そのあとの祭礼、芸能、余興には多くの結集が期待できるのではないか。 近世からの豊年祭である「御鍬祭」は、今後60年の世直しを考える場にもなるかもしれない。
御鍬祭考 -民衆の伊勢信仰-からの抜粋
上萱津の御鍬祭上萱津の御鍬祭4月13日の日曜日に、上萱津の御鍬祭が萱津神社で行われるとの新聞記事(2008年4月8日・尾張版)を見つけました。 甚目寺町大字上萱津の萱津神社で、190年前に作られた御鍬祭の鞍2つが見つかった。 一部破損しているが、約60年に1度行われた過去3回の御鍬祭でも使われたと見られるなど祭の長い歴史を背負った証拠の品 13日に60年ぶりに行う御鍬祭で馬に乗せて披露される。
この記事を見つけ萱津神社へ御鍬祭を見に行ってきました。 昨年は、あちこちの集落で御鍬祭が盛大に行われましたが、の~民が御鍬祭の存在を知ってのは、すべて終わったあとでした。 しかも、の~民の集落でさへ、神社担当の役員だけが参加して、祝詞を挙げただけとはいえ実施されたのを知らなかったのは返す返すも残念だったと思っていた時でしたので、たとえ一部だけでもと思い、用事をサボってみてきました。 御鍬祭の行列は思った以上に盛大なものでした。 このような祭を60年に1度集落ごとに趣向を凝らして行ってきた先人に改めて感心しました。
の~民は、行列の出発に先立挨拶の中で、言われた『今回の御鍬祭を開催するにあたって、資料は写真1枚でした。』という言葉に考えさせられました。 なぜ、御鍬祭は60年に1回なのだろうかと! 昔の人は人生50年と言われるくらいなので、毎年とは言わないが5年か10年に1回にしなかったのだろう? 御鍬祭は伊勢神宮の恩師たちが作ったものらしいので、伊勢神宮の式年遷宮と同じで20年に1回にしなかったのだろう? なぜ資料がほとんど無くなる60年もの間を空けるのだろうと、あとからあとから疑問がわいてくる。 まったく不思議だ。
御鍬祭とは
御鍬祭とは、近世初期に伊勢と民衆をつなぐ役割があった伊勢神宮の御師という下級の神職が、神宮の鍬山神事を模して、木の枝で鍬の形をつくり、それを御神体の如く村から村へ廻して流行を作り出したものである。 五穀豊穣を祈り、豊年を感謝するのが祭り本来の意味だとすれば、この御鍬祭とは素朴な農耕神事というより、むしろ賑やかな「風流」であった。 農民や漁民、町民たちは、これをめったにない機会と捉えて、さまざまな願望をこめ、またそれを形にした。 そこにはあらゆる種類の芸能が飛び出し、祭礼のそこかしこに時代のうねりが表現されるものとなった。 人びとの欲望の目一杯の実現となったこの祭りは、権力者からは贅沢と判断され、時には徒党と見なされ、警戒されることもあった。
御鍬祭考 -民衆の伊勢信仰-から抜粋
御鍬祭りのごとく
御鍬祭りというのは、人びとがさまざまに飾り立てて御輿をかついで集団で飲食の振舞いをうけながらねり歩くという形のものが一般的で「ええじゃないか騒動」初期の村をあげての祭りのあり方に近似したものであった。 御鍬神は農業神であり、豊作祈願の民間信仰が前年の凶作にかわる豊作と物価下落という様相に、世のなかの変化を確実にみてとりつつ、なおその変化の先行きに不安をとりさることができなかった人びとの心を動かし、御祓等の降下を「神異」「奇端」とする「ええじゃないか」の集団的行動に駆り立てていったのである
御鍬祭考 -民衆の伊勢信仰-から抜粋
明治の変革
明治以降、恩師の制度も外宮、内宮の「お鍬山祭」も公式にはなくなったが、今も神殿において「御鍬祭」(みくわまつり)として立春の日(2月4日)に神楽が奏される。 現存する御鍬社への対応で、天照皇大神宮と印された枝木で作った「御鍬」に榊を添えたものが十個余り用意される。 矢野憲一氏は「4月のはじめ、神田下種祭という種蒔の祭に先立ち、山の神のもとで農具の鍬を作る木を1本いただく儀式がある。 古くは伊賀利の神事というのもあった。 おそらく野山のイノシシを退治しなければ農業ができなかった時代の名残だと思う」 (伊勢神宮 1991年)という。 「お鍬祭」は明治二十一年、昭和二十二年と続き、尾張は十四山村、弥富町、七宝町、大治町、稲沢市、清洲町、甚目寺町、西尾市、師勝町、西春町、春日町、一宮市、八開村、祖父江町、美和町、瀬戸市、尾張旭市、日進市、名古屋市中川区、中村区、港区、三河は安城市、西尾市、美濃は南濃町にある。 近世との大きな違いは、御師の制度がなくなった以外に、村から村に廻さなくなった。 ほとんどそれぞれの村内で完結させた。 文政以降の周期を意識して、農耕、農業、百姓、農家のために豊作を祈願するために豊作を祈願するために、尾張部を中心に伝承されている。
御鍬祭考 -民衆の伊勢信仰-から抜粋
萱津神社の場所です <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/26.513,136/50/32.867" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/26.513,136/50/32.867&scale=25000"></a>
April 14 「ウリ坊」の料理「ウリ坊」の料理今日、友人と外食し帰宅したら食卓に料理が! 女王様には、『友人と外食をしてくる。』と言ったはずだと思ったが、さては言っておくのを忘れたかと、一瞬全身の血が引くのを感じだが、思い出せる限り言ったはず! そうこうしているとウリ坊が、料理を試作したから味見をしてもらおうと思っていたとのこと。 ウリ坊の料理の腕は先回で分かっているが、味見ならば遠慮することはない! どしどし批判をさせてもらおうとして口にしたが、う~ん美味しい。 グラタンは、女王様(妻です)の得意料理の一つなので、の~民は食べなれている。 またの~民は、タマゴが大好きなので、オムライスは食べなれた料理の一つです。 でも、おいしかった。 文句のつけようが無いのが悔しいくらい、美味しかったです。
キンカンのグミ今日は、キンカンが沢山手に入ったからとキンカンで作ったグミ出してくれました。 の~民は、お菓子は柔らかいものと、プニプニしたプリンやゼリーのようなものが大好きです。 試食したキンカンのグミの美味しかったこと! ほのかな甘味とキンカンの風味、そしてグミ特有のプニプニ感! 本当においしかった。
今日の~民は、外食して満腹状態 今日のような日に、外食したのがクヤシィ~い! 明日の朝には、全部の~民が頂くぞぉ~ April 09 の~民のお花見パート2の~民のお花見 パート2
先日の~民のお花見処を紹介しましたが、紹介仕切れなかったところを再度紹介します。 ソメイヨシノの緑地です。 ソメイヨシノの緑地は、美和町大字蜂須賀地内、美和町と稲沢市の境界線上にある昔の街道、清洲街道沿いに、美和町が整備した緑地です。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/12/13.756,136/46/40.886" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/12/13.756,136/46/40.886&scale=25000"></a>
そのほかに美和町には、サトザクラの緑地があります。 美和町立東小学校の南側用水沿いに美和町が整備した緑地です。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/13.129,136/48/1.868" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/13.129,136/48/1.868&scale=25000"></a>
甚目寺町の水辺乃並木道です。 ここは、福田川沿いに甚目寺町が整備した緑地で、いろいろな桜が植えられています。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/54.923,136/49/15.044" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/54.923,136/49/15.044&scale=25000"></a>
まずは、代表的な桜であるソメイヨシノです。 エドヒガンザクラとオオシマザクラの交雑種 名は江戸染井の植木屋から全国にひろまった桜です。 シダレザクラです。 枝垂桜・一名イトザクラ(糸桜) エドヒガンザクラの園芸品種 枝が大きく垂れ下がっていて美しい。各地に名木があり、花は葉の出る前に咲く オオシマザクラです。 サトザクラの母種です。 分布は、本州(房総・伊豆)の山地、3~4月頃新葉と共に白い花が咲きます。 ヤマザクラです。 分布は、本州から九州・朝鮮半島 日当たりのよい山の斜面に生えている。 花は、葉の展開と同時に咲く 七宝町が小切戸用水沿いに整備した桜並木です。 昨年までは、七宝町の桜祭の会場でしたが、県道名古屋津島線のバイパスを工事中ですので会場が移転されました。 ただ昨日の雨で、一部葉桜になっていました。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/10/0.677,136/48/16.823" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/0.677,136/48/16.823&scale=25000"></a> April 06 の~民のお花見の~民のお花見
春といえば日本では桜 桜といえばお花見です。 桜の下で飲んで騒ぐなどと言うことではなく、桜を見て楽しむ これが本来の姿だと思います。 お花見も京都や奈良まで行かなくて桜を見ることが出来ます。 の~民のお花見の見処を紹介します。 の~民の菜園にある桜です。 今日も桜吹雪の中、菜園で草取りをしていました。 ただしこの桜は、菜園の隣にある民家の庭の桜ですが、の~民が勝手に菜園にある桜と思っているだけです。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/12/51.34,136/50/43.734" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/12/51.34,136/50/43.734&scale=25000"></a> 五条川の桜です。 ここは、尾張地域でも一番有名な花見の会場です。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/11/13.921,136/45/25.623" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/13.921,136/45/25.623&scale=25000"></a> 愛西市の勝幡にある桜です。 ここでは、昨日と今日桜祭をやっていました。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/7/0.115,136/47/22.263" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/7/0.115,136/47/22.263&scale=25000"></a> 蟹江町の文学の散歩道の桜です。 佐屋川の水面に映る桜は、の~民が大好きなところです。 何より人混みが無いのが一番好きなところです。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=25000;p=35/7/45.636,136/46/53.911" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/7/45.636,136/46/53.911&scale=25000"></a> 蟹江町の足湯かにえの郷の桜です。 ゆっくり足湯に浸かりながら、のんびりと見るなら尾張温泉近くの足湯かにえの郷です。 道路沿いなので、排気ガスと車の騒音を気にしなければ最高です。 近くの神社にも桜の名所があります。 普段気にせずに見ている神社ですが、桜の季節には感動します。
番外編の桜桜の花入りクッキーです。 ウリ坊の職場で作っているものですが、桜の花にかすかな塩気があり美味しかったです。 流行と利益を両立させた?三島社(海部郡の鎌倉街道14)流行と利益を両立させた?三島社(海部郡の鎌倉街道14)
実成寺付近から三島神社までの道が、いかにも鎌倉街道らしい道路です。 三島神社のいわれを見ると昔の萱津宿の里人心理も現代人の心理もよく似ているなぁ~と関心てしまいます。 当時の流行の神社である、三島大社を分霊を勧請するのですが、そのうち大山祗命だけを勧請しているからです。 鎌倉時代は、まだ商業がそれほど発達していないからか、それとも宿場とは言っても農業のほうが盛んだったためか、商業神である事代主命は福徳神(俗に恵比寿と称して商家で祀る)は勧請せず、農業神である大山祗命のみを勧請する。 流行と利益(必要性?)を両立させた萱津宿の人々、流石だと感心しました。
三島社
所在地 甚目寺町大字中萱津字道場138 祭 神 大山祗命 由 緒 その昔里人が、村の光明寺の本山である東海道藤沢の浄光明寺に参詣の折り、伊豆の三島明神の分霊を勧請したものと伝えられている。 寛政覚書に「三島権現社内三畝六歩備前検除。岩塚村善太夫持内」とあるから、慶長13年検地のときは、すでに相当な社地であった訳である。 おそらく当社は光明寺の鎮守として、鎌倉時代の鎮座であると思われる。 分霊を勧請したと伝えられる三島明神は、当時大流行した社であったからである。 源頼朝が蛭ヶ小島から日毎の浅参りで源氏再興を祈願し、数々の伝説を残したほどに尊崇した結果大願成就したので、全国総鎮守とあがめられた大明神である。 そのための勘請であったと思われるが、或は農事的な信仰の故であったかもしれない。 多分その両方の理由からであったであろう。 元来「三島」とは「三柱の神」の謂であるが、伊豆の三島神社ですら一柱の神名は忘れられ、事代主命(ことしろぬしのみこと)と大山祗命(おおやまつみのみこと)の二柱を祭神としている。 しかもそのうち大山祗命だけを勧請しているのであるからである。 事代主命は福徳神(俗に恵比寿と称して商家で祀る)であり、大山祗命は山林農耕の守護神である。 海部郡史稿本では、 拝殿、鳥居あり。境内三百七十一坪。官有地第一種なり。氏子六十八戸。例祭は四月十六日なり。 とあるが、伊豆の三島神社の例祭は八月十五、十六、十七の三日間である。 境内 三七一坪 氏子 五五戸(丹羽稿本) 建物その他 社殿 一坪 拝殿 七.五 坪 祭文殿 三坪 鳥居 二基 石灯籠 十三対 将門 一基 狛犬 二対 灯明台 二基 境内社 秋葉社 祭神 迦具土神
三島神社の境内
合祀熱田社・白山社・七面社
実成寺から三島神社までの道順実成寺から三島神社への道順実成寺の山門前を北進する。
約40mで十字路に出るが、そのまま北進する。
十字路から150m北進すると、左側に三島神社の赤い鳥居が見える。
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/11/6.198,136/50/44.591" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/6.198,136/50/44.591&scale=10000"></a>
*の~民の記事「海部郡の鎌倉街道2」へ April 05 の~民の夕食April 01 境内に水あらい鬼子母神がある正善寺(海部郡の鎌倉街道13-4)境内に水あらい鬼子母神がある正善寺 (海部郡の鎌倉街道13-4)正善寺山門 正善寺は実成寺の境内にあり、山門を入って左側にあります。 円行寺と向かい合っています。
水あらい鬼子母神 水あらい鬼子母神は、正善寺の山門を入ってすぐのところに在ります。 実成寺の境内から、水あらい鬼子母神の由来が見えます。 由来には、「そもそも鬼子母神は、子供の人肉を食した悪鬼なり、ある時お釈迦様の教えを聞き自分の過ちを悟り、懺悔と今後は子供たちを守ることを決心し、さらに他人の幸福のために生きようと慈悲の心をおこし、釈尊との誓いから安産子育て並びに災害を除き幸福を守る守護神となる。 当寺の水あらい鬼子母神のお姿に直接に触れ法華経と結縁してして所願成受のご利益を受けてください。」とある。 の~民は、 この由来を読みがたら 考えたのですが、 鬼子母神が悪鬼の時 食した子供の 親達は救われたのでしょうか?
正善寺の本堂 本尊は法華経題目宝塔である。 寺伝によると開基は正善坊日秀と伝えられているが、草創年代は詳でない。 寛文年代に現存していたことは事実であるから、江戸初期以前の創立であることは間違いない。 旧は実成寺の西隣にあったが、江戸末期に学泉院の廃寺後現在の地に移った。 当時は、主として高僧の隠居所として、使われたらしい。 したがって、住職名を附したことがなく、また歴世も詳かでない。
甚目寺町文化財報告書Ⅷ・甚目寺町の寺院~縁起と由来~・甚目寺町教育委員会発行から抜粋
*の~民の記事「実成寺へ」
正善寺の場所です。
<a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/10/59.844,136/50/45.897" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/10/59.844,136/50/45.897&scale=10000"></a> 山門前に軍馬記念碑がある泉竜寺(海部郡の鎌倉街道13-3)山門前に軍馬記念碑がある泉竜寺(海部郡の鎌倉街道13-3)泉竜寺山門と軍馬記念碑 泉竜寺山門前には軍馬記念碑がある。 の~民の知る限り、多くの神社仏閣には戦勝記念碑とか忠魂碑など軍人の石碑はあるが、軍馬とはいえ馬の碑は始めて見ました。 考えてみれば、軍隊にとって馬は重要な戦力だったとは思います。 特に明治時代では軍の機械化といってもまだ始まったばかりの時代でしょうから
実成寺の境内にあり、円行寺の西隣に並んでいる。 実成寺本堂の北側にあたる。 本尊は法華経題目宝塔である。 由緒は室町時代日本坊と称する僧がこの地に来て熱心に教えを説いて歩いていた。 遂に信徒に勤めて一宇を創建し実成寺(当時は妙勝寺)第三世宝塔院日肝に請うて開基とした。 永享元年(1429年)であった。 以来実成寺の塔頭であったが、明治維新の際に実成寺の末寺となり、今日に及んでいる。 寺の門前左隣に明治38年建立の立派な「軍馬之碑」がある。
甚目寺町文化財報告書Ⅷ・甚目寺町の寺院~縁起と由来~・甚目寺町教育委員会発行から抜粋
泉龍寺の場所です。 <a href="http://base.alpslab.jp/?s=10000;p=35/11/1.381,136/50/45.337" target="_blank"><img src="http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/11/1.381,136/50/45.337&scale=10000"></a> |
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